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2009年04月21日
バンドン特集 PART 1
編集者 Bulan purnamaさんが、旅に出ちゃいました
ピンチヒッター Hide が、これからしばらくの間、協会のブログを書いていきます
浜松インドネシア友好協会が接している、BANDUNG(バンドン)市を、数回に分けて
紹介します。
今年7月に、協会訪問団が、バンドン市に訪問し、友好を深めます。
会員以外の方でも、参加可能ですので、このブログを通して、バンドンに
行ったつもりで、見てみてくださいませ
まずは、旅と言えば、地図ですね、これがバンドン市の地図 ↓
ジャカルタから、東南に約200kmほど。浜松から、東京あたりの距離ですね。
今でこそ、高速道路があるので、2時間程度で行けますが、私Hideが、ジャカルタに
いた約10年前は、高速が無く、一般道を通り、段々畑、にわとり、ヤギを見ながら、
のどかに車で移動しました、5~6時間かかりましたが・・・
バンドンの紹介を短めにまとめた記事です ↓
ちなみに、この記事は、バンドン出身のFEBIくんが、協力してくれました
FEBIくんは、現在、こちらへ留学中で、協会の4月26日総会では、
インドネシアの踊りや歌を披露してくれます。
<バンドン紹介>
高原の町といわれるバンドン(Bandung 旧Bandoeng)市はタンクバン・プラウ山の
750㍍の山麓に位置しており、気候は平地より爽やかで過ごしやすい。
山の標高は 2076㍍であるが、バンドン自体が高地であるのでそのような高さには
見えない。
バンドンに人が住み始めたのは17世紀中頃から。
バンドンのある場所は太古は湖であったが、タンクバン・プラウの溶岩の流れで埋め
尽くされて干バンドンルム川によって排水されている。
湖の決壊はサンクリアン伝説として伝えられている。
豊かな農地を後背地として、1864年プリアンガン州の首都となり、さらに1909年
ジャカルタとの間に鉄道が敷かれ、交通の便がよくなり蘭印軍の基地となった。
オランダ植民地時代に首都機能をバタビアからバンドンへ移転するべく、段階的に
中央統治機構の一部はバンドンに移された。このシステムはそのまま共和国に
引き継がれ、今でも郵政、通信、運輸の中央官庁は首都ジャカルタではなくバンドン
にある。
-----------------------------------------------------------------------------
ちょっと硬い記事になりました;;;
歴史と地形は、感じてもらえたと思います。
朝晩は、涼しいところで、20度以下になることもあり、ひんやりしてます。
軽井沢のような感じでしょうね。
次に、代表的な建物の紹介です。
バンドンは、最近では、アジアアフリカ会議が、2005年に開催され、小泉首相が
出席されました。
この建物が、会場の、GUDUNG MERDEKA です。
私も2年前に、ここに行きました。
中は、大きな会議場で、壮大でした!
1800年後半の建物であることから、歴史の重みが感じられます。
<GUDUNG MERDEKA (グドゥング ムルデカ)>
1879年Van LastとCP Schoemakenの2人によって建築されたこのビルは、
Socieit Concordiaと呼ばれ、ミーティングホールとして使用されていた。
独立後、国際会議場として使用され、1955年のアジアアフリカ会議の開催時に
改装され、初代大統領スカルノによって独立記念館(Gudung Merdeka)と命名された。
バンドンアールデコ様式の代表的建造物のひとつである。
この建物と隣にあるアジアアフリカ博物館には、アジアアフリカ会議開催時に
宣言された「バンドン10原則」についての各種展示があり、貴重な展示物も多い。
日本からは 高碕達之助 経済審議庁長官(当時)が 代表として出席し、 日本が
新憲法の精神に基づく”平和国家”である事を 宣言したのです。
2005年の50年振りのアジアアフリカ会議では106ケ国がバンドンに集まり、 日本の
小泉元首相も、参加され平和的な国際協力に尽力する決意を述べました。
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これも硬めの記事で・・・
PART 1 は、ちょっと硬めの歴史と土地がらの紹介でした。
PART 2 以降は、徐々にやわらかめの記事にします。
温泉、町並み、食べ物、市場、バンドンの人の熱気などを、ちょっとずつ、
記事にしますので、お楽しみに!!
バンドンの知りたい情報が、ありましたら、メールにてお願いします。
TERIMA KASIH 。。。
ピンチヒッター Hide が、これからしばらくの間、協会のブログを書いていきます
浜松インドネシア友好協会が接している、BANDUNG(バンドン)市を、数回に分けて
紹介します。
今年7月に、協会訪問団が、バンドン市に訪問し、友好を深めます。
会員以外の方でも、参加可能ですので、このブログを通して、バンドンに
行ったつもりで、見てみてくださいませ
まずは、旅と言えば、地図ですね、これがバンドン市の地図 ↓
ジャカルタから、東南に約200kmほど。浜松から、東京あたりの距離ですね。
今でこそ、高速道路があるので、2時間程度で行けますが、私Hideが、ジャカルタに
いた約10年前は、高速が無く、一般道を通り、段々畑、にわとり、ヤギを見ながら、
のどかに車で移動しました、5~6時間かかりましたが・・・
バンドンの紹介を短めにまとめた記事です ↓
ちなみに、この記事は、バンドン出身のFEBIくんが、協力してくれました
FEBIくんは、現在、こちらへ留学中で、協会の4月26日総会では、
インドネシアの踊りや歌を披露してくれます。
<バンドン紹介>
高原の町といわれるバンドン(Bandung 旧Bandoeng)市はタンクバン・プラウ山の
750㍍の山麓に位置しており、気候は平地より爽やかで過ごしやすい。
山の標高は 2076㍍であるが、バンドン自体が高地であるのでそのような高さには
見えない。
バンドンに人が住み始めたのは17世紀中頃から。
バンドンのある場所は太古は湖であったが、タンクバン・プラウの溶岩の流れで埋め
尽くされて干バンドンルム川によって排水されている。
湖の決壊はサンクリアン伝説として伝えられている。
豊かな農地を後背地として、1864年プリアンガン州の首都となり、さらに1909年
ジャカルタとの間に鉄道が敷かれ、交通の便がよくなり蘭印軍の基地となった。
オランダ植民地時代に首都機能をバタビアからバンドンへ移転するべく、段階的に
中央統治機構の一部はバンドンに移された。このシステムはそのまま共和国に
引き継がれ、今でも郵政、通信、運輸の中央官庁は首都ジャカルタではなくバンドン
にある。
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ちょっと硬い記事になりました;;;
歴史と地形は、感じてもらえたと思います。
朝晩は、涼しいところで、20度以下になることもあり、ひんやりしてます。
軽井沢のような感じでしょうね。
次に、代表的な建物の紹介です。
バンドンは、最近では、アジアアフリカ会議が、2005年に開催され、小泉首相が
出席されました。
この建物が、会場の、GUDUNG MERDEKA です。
私も2年前に、ここに行きました。
中は、大きな会議場で、壮大でした!
1800年後半の建物であることから、歴史の重みが感じられます。
<GUDUNG MERDEKA (グドゥング ムルデカ)>
1879年Van LastとCP Schoemakenの2人によって建築されたこのビルは、
Socieit Concordiaと呼ばれ、ミーティングホールとして使用されていた。
独立後、国際会議場として使用され、1955年のアジアアフリカ会議の開催時に
改装され、初代大統領スカルノによって独立記念館(Gudung Merdeka)と命名された。
バンドンアールデコ様式の代表的建造物のひとつである。
この建物と隣にあるアジアアフリカ博物館には、アジアアフリカ会議開催時に
宣言された「バンドン10原則」についての各種展示があり、貴重な展示物も多い。
日本からは 高碕達之助 経済審議庁長官(当時)が 代表として出席し、 日本が
新憲法の精神に基づく”平和国家”である事を 宣言したのです。
2005年の50年振りのアジアアフリカ会議では106ケ国がバンドンに集まり、 日本の
小泉元首相も、参加され平和的な国際協力に尽力する決意を述べました。
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これも硬めの記事で・・・
PART 1 は、ちょっと硬めの歴史と土地がらの紹介でした。
PART 2 以降は、徐々にやわらかめの記事にします。
温泉、町並み、食べ物、市場、バンドンの人の熱気などを、ちょっとずつ、
記事にしますので、お楽しみに!!
バンドンの知りたい情報が、ありましたら、メールにてお願いします。
TERIMA KASIH 。。。
Posted by LPIH at 12:43
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